手術後のリハビリ生活 もどかしい日々 そして近づく終わりの時
病室
目が覚めると、目の前は独特な穴の模様の天井でした。
一瞬の間があり、ようやく病室のベッドであることに気が付きました。
その前の記憶と言えば、
手術室に歩いて入って、ベッドに寝かされ、
緊張も、心の準備もする間もなく、酸素マスクのようなものを口に当てられ、
意識が遠のいていく私に看護婦さんが「西村さーん、西村さーん」と呼びかけているところでした。
私はものすごいスピードで深い闇の中に落ちていきました。
そうだ、手術を受けたんだった。
記憶を飛ばすほどの深い眠りから覚めた私は、
そこでようやく自分が手術を受けたことを思い出しました。
全身がこれまでに経験したことのないほどのだるさを感じ、
自分の力で起き上がることはもちろん、体を動かすことすらできませんでした。
呼吸もしづらく、何もかもが初めての経験だった私は、
色んな悪い想像をしてしまい、
『手術は失敗したんだ』
『このまま呼吸ができずに死んでしまうのか』
と、少しだけ間抜けなパニックになりました。
体を動かそうにも、体のどこにも力が入ってくれず、全く動くことができませんでした。
そんな中、何よりも気になっていた肘の状態が早く知りたくて、
期待と不安の中、なにか自分の中でも、少しもったいぶりながら、
動かない体の力を振り絞って、右腕を少しだけ持ち上げようとしました。
私の中でどこか幼稚な想像があり、
すっかり良くなっているんじゃないかという変な期待をしてしまい、
自分の腕とは思えないほど全く違う右腕の感覚に、その期待は簡単に裏切られました。
むしろ私は、絶望しました。
アイシングもしていたということもありますが、その右腕の感覚はほとんどなく、
そして、深く、重たい痛みが胸のあたりまで響いてきました。
「自分の腕じゃない。気持ちが悪い」
こんな腕が本当にピッチングができるようになるのか?
元通りになることが全く想像できず、心を折られるほどのショックを受けました。
必死に力を入れていた右腕も、持ち上げる気力さえ失い、
私は右腕を胸に抱いたまま、現実から逃げるように、体の力を抜きました。
新しい自分
手術を終え、一晩が経ち、
ほんの少しだけ感覚が慣れてきた右腕を三角巾につるし、
病室を出ました。
手術前に来たときは重く、暗く感じた病院の雰囲気も、
なにか目の前が明るく、とても綺麗に見えました。
とても晴れやかな気分でした。
病院の外に出た時は、自分自身が生まれ変わったような気持ちにもなりました。
昨日の夜感じた肘の痛みのことも、すっかり忘れるほどの解放感に浸っていた私は、
呑気にタクシーから見える景色を眺めながら、寮に帰りました。
これから長く辛く苦しいリハビリ生活という戦いが待ってることもすっかり忘れて、、、
リハビリ
ギブスで固定してある肘の包帯をほどき、
伸びも曲がりもしない固まった肘と、久しぶりに対面する時が来ました。
肘関節の周りはパンパンに腫れあがり、アザだらけになっていました。
驚きはしましたが、私はどこか前向きで、
これからよくなっていくであろうズタボロの右腕に愛着すら湧いていました。
少しずつ肘を動かしていくことになりました。
軽い重りを持ち、肘を曲げ伸ばしして、重りの重力で曲がった肘を伸ばすという、
どこか原始的なリハビリからのスタートでした。
先の思いやられる作業でしたが、地道に取り組んでいきました。
抜糸をしました。
地道なリハビリをしていたこともあり、
抜糸という出来事が、とても大きなステップアップに感じて、とても嬉しく思いました。
そこからどんどんと、復帰に向けて気持ちも加速しはじめました。
ある程度、肘の可動域も出てきたころ、
外でのランニングや、トレーニングもできるようになっていました。
同時期に手術をしたリハビリメンバーとは別メニューの練習でしたが、
日々進歩していくことに、喜びと充実感がありました。
すべてが順調に進んでいると思っていました。
苛立ち
リハビリも順調にきていた頃、
私の中で気持ちの変化が起きるようになっていました。
手術が初めてだったということもあり、漠然と1日1日に課せられた課題をクリアし、
満足していた私は、自分自身のリハビリに違和感を感じるようになりました。
無知な私は、トレーナーの言うことを聞くことしかしていませんでした。
同時期に手術をしていた選手と、少しずつ差をつけられるようになりました。
同じようにリハビリメニューをしている私が遅れをとっていることを私は疑問に思い、
トレーナーになぜかと尋ねました。
「あの選手とは手術の内容が違う」
「西村の手術は前例がない」
と説明をされました。
私は納得することができず、さらには不信感さえ覚えました。
そして、なかなかうまく状態の上がってこない現状に、私は徐々に苛立ち始めました。
その頃から私は、
トレーナーの発言や行動にいちいち噛みつくようになりました。
「なぜ、怪我をした箇所が違う選手と同じリハビリメニューなのですか?」
「なぜ、前例がないのに周りと同じことをしているんですか?」
「なぜ、調子が悪いと言っているのにノルマの距離を投げないといけないのですか?」
「なぜ、調子がいい日には投げさせてもらえないのですか?」
ある日、疲れがたまっているトレーナーさんが私の治療中に居眠りをされた時がありました。
いつもなら笑い流せることだったのですが、その時は、
「もういいです」
と、治療を断り、トレーナーを困らせることもありました。
今となっては反省ですが、その当時は、リハビリに関して無知なうえ、
勝手に信頼していたトレーナーさんにどこか裏切られたような感覚にまでなっていました。
遅れをとっている現状にぶつかった時、復帰を焦っていたこともあり、冷静ではいられませんでした。
私はリハビリという、とても大切な時期を自らの態度で壊してしまいました。
期待と裏切りそして不安
私はリハビリ期間中の2013年から、
4年間住んだ寮を離れ、一人暮らしを始めました。
その頃にはブルペンでの投球も再開し、
いよいよ試合復帰というところまで来ていました。
しかし、その頃でも、日によって調子のいい日と、悪い日がありました。
手術をしたのに、調子の悪い日があることにショックはありましたが、
「手術をしたら100パーセントの体には戻らない」
という、ドクターの言葉が頭にあったので、仕方ないと思っていました。
痛みは無くなっていたのですが、調子の悪い日に出る違和感に、
『再発』という言葉が、大きな恐怖心として私の心の邪魔をしてきました。
思い切り腕を振って投げたいのですが、「またあの痛みが走ったらどうしよう」と、
どうしてもあと一歩のところで躊躇してしまいました。
そして次第に、痛みや違和感を感じないフォームを追い求め始めました。
『再発』の恐怖心と、誤魔化しのフォームで、どんどん自分のピッチングを見失っていきました。
朝は、『今日はうまくいくはず』と、
期待と自分なりの解決策をパンパンに頭に詰め込んでグラウンドに向かうのですが、
帰りには、『今日もうまくいかなかった』と、
悔しくて、何度も泣きながら帰宅することがありました。
なかなかうまくいかない日々は、
焦る私をあざ笑うかのようにあっけなく過ぎていきました。
終わりの日
手術をして2年がたったころ、
ようやく怖さもなくなり、ある程度思い切り腕が振れるようになってきていました。
しかし、自分の納得のいく球は、まだ投げられずにいました。
私はいろいろな本やネットなどの情報を頼りに、
投げ方を変えてみたり、投球のモデルチェンジまでも考えていました。
そんな試行錯誤の日々を過ごしていました。
練習に行こうと玄関を開けると、
頬にあたる風がとても冷たく、
シーズンの終わりを感じさせました。
その年、私は1軍での登板はありませんでした。
私はテレビで1軍の最終戦を見ていました。
試合が終わり、間もなく、
私の携帯が鳴りました。
球団のスタッフの方でした。
正直に言うと、何の電話か話を聞くまで分かりませんでした。
話の内容は、次の日に指定されたホテルにスーツで来るようにとのことでした。
私はすべてを理解し、「まさか」「嘘だろ」という思いが頭の中を駆け巡り、放心状態になりました。
体から力が抜けていく感覚がありました。
それと同時に、この苦しい生活から抜け出せる。と、
ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気もしました。
次の日、私は指定されたホテルに向かいました。
そこで私は、『戦力外通告』を言い渡されました。
プロ野球選手としての生活が終わりました。
私は自宅に戻り、お世話になった人や恩師に連絡をし、
クビになったことの報告と、これまでのお礼をしました。
いろいろな言葉をかけてもらいました。
いち社会人としてしっかりと挨拶をしなきゃと思い、
淡々と報告をしていました。
そんな中、
なかなか家族に連絡をすることができませんでした。
家族を悲しませたくなくて、
正確には、悲しませるとわかっていて、連絡する勇気がなくて、
後回しにしていました。
ある程度お世話になった方々に報告も終わったころ、
その勢いを使って、家族に連絡し、クビになったことの報告をしました。
私は平静を装い、
「なんともないよ」「ほっとしとるよ」と、
強がりまで言いました。
家族を悲しませたくないという思い一心でした。
電話を切った後、
いろんな思いがこみ上げてきて、
私は戦力外になって初めて泣きました。
その後、同級生や、普段からよくしてくれた先輩からも連絡をいただきました。
素直に、嬉しかったです。
本当に感謝しています。
そして最後まで面倒を見てくれた阪神タイガース球団。
ドラフトで私を指名してくれた阪神タイガース球団。
夢を見させてくれた阪神タイガース球団。
心から、感謝しています。
本当に、
感謝の気持ちしかありません。
本当に、本当に、
ありがとうございました。
まとめ
秋の冷たい風を感じると、
この時の記憶が蘇り、
今でも胸が締め付けられます。
今回で阪神タイガースの話は最終回です。
まだまだ細かい思い出話はたくさんありますが、
それはまたいつか書かせてもらいたいと思います。
少し暗い話になってしまいましたが、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この当時、手術をしてからのリハビリ生活はとても辛く、苦しかったですが、
今となってはその経験を伝えることができるので、
全く後悔はしていません。
むしろ、同じように手術を考えている選手にアドバイスなどができるので、
手術を決断したこともよかったと思いますし、手術をさせてくれたことにも感謝しています。
実際に、今社会人のピッチングコーチをしていて、同じような肘の手術をした選手がいました。
この選手は今、バリバリ元気に投げています。
経験を活かし、選手に寄り添い支えることができるのも、
この苦しい経験をしたからだと思います。
そして、自分自身が怪我をして気付いたこと。
怪我をしないための方法。
怪我から復帰するときのメンタルコントロール。
など、たくさんのことを学びました。
この経験が今となっては役に立っています。
苦しい時もありましたが、私の人生の経験は、何一つとして無駄なものはありませんでした。
これからも日々勉強だと思い、毎日を大切に過ごしていきたいと思います。
一つ、この場をお借りしてお礼させてください。
手術を終え、寮に戻った時の話です。
本格的なリハビリが始まるまで、右腕が使えない生活はとても不便でした。
だけど、その当時寮で食事を作ってくれていた料理人の方々は、
私が利き腕が使えないからと、スプーンやフォークを用意してくれたり、
食べやすい料理を作ってくれたり、
これは違う時期の話ですが、
私が体力が落ちて食物アレルギーが出た時も、一人のために特別メニューを作っていただいたり、
本当に助けてもらいました。
今でもあの時の気持ちは忘れたことはありません。
本当に、ありがとうございました。
次回からは、
プロ野球選手が終わり、
その後、独立リーグに行きプロに戻るためにプレーしたときの話をさせてもらいます。
よろしくお願いします。
【阪神タイガース時代】
ディスカッション
コメント一覧
直球の回転数について調べていていいページをみつけた、と思ったら西村投手のブログでびっくりした一阪神ファンです。
タイガース時代のことを書かれていたので一通り読ませていただきました。ブラゼル選手の退場からの外野守備、テレビで興奮しながら観戦したのが懐かしく思います。
二軍に落とされる選手、怪我に苦しむ選手の心境を知る機会は少なく、スポーツ紙を賑わすニュースの裏で、復活することができずに表に出なかった一人一人の選手の物語があるのだと感じ入りました。
外部の人間が言うのは烏滸がましい話ですが、当時の首脳陣の西村さんの投げさせ方には不安、疑問を感じておりました。
ですが現在前向きにその経験を糧とされているようで、すごい人物だと思わされました。
コメントありがとうございます。
なかなか時間がなく、書くペースも、更新も遅いですが、
少しずつ書いていきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。