揺らぐ心 独立リーグ2年目 見えていなかったこと見なくていいもの

向かう先に立ちはだかる

 

 

阪神タイガースを肘の怪我が原因で戦力外になり、

1度目のトライアウトを受けましたが、

プロ野球からは声がかからず、

独立リーグの石川ミリオンスターズに入団させてもらい、

再びプロ野球の世界に戻るべく、必死にアピールをしましたが、

2度目のトライアウトでも声がかかることはありませんでした。

前回も書かせてもらいましたが、

2度目のトライアウトは、私にとっても特別なものでした。

【前回】

2度目のトライアウト 変化していく気持ち

 

1年間戦える姿を見せること、怪我をした肘の不安がないこと。

そしてバッターを抑える技術を見せること。

そこさえクリアできればまたプロの世界に戻ってプレーができる。

そう信じて、いろんなことを犠牲にしながら、日々努力してきましたが、

2度目の夢も叶えることができませんでした。

特別だったこともあり、落ち込む大きさも一際でした。

このまま続けていても、もうチャンスはないんじゃないか。

この成績でも必要とされないなら、もう無理ではないだろうか。

モチベーションを保つ自信がありませんでした。

ただ一つだけ心残りがありました。

それは、

『球速』

でした。

球速に対するチャレンジから目を背けていたことでした。

もともと私のセールスポイントは?と聞かれると、

学生の時から、「球のキレと、コントロールです」と答えていました。

球速は出そうとして出すものではない、

気付いたらいつの間にか出ているものだと思っていたからです。

これは強がりでも負け惜しみでもなく、

本当にそう思ってました。

もちろん球速のMAXを更新したときは都合よく喜んではいましたが、

打者をイメージ通り完璧に抑えた時ほどではありませんでした。

しかしながら、時代も変化しながら進んでいきます。

その当時、『球速』の注目度、評価は高く、

実際2度目のトライアウトで言われたことでもありました。

自分の投球スタイルとは全く違うものではありましたが、

自分の中でもこのことを肯定化し、

余計なプライドを捨てて、方向転換をする決意をしました。

今思えばこの時に考え方がブレてしまっていましたが、

その時は藁をも掴む思いで、とにかくプロ野球関係者にアピールをしたいという、

私なりの精一杯の努力でした。

 

 

新たなシーズン

 

 

独立リーグ2年目がスタートしていきました。

新たに新人も加わり、また一つ年齢の足枷の重みと責任感が増した感覚がありました。

新戦力と、新たなスタッフ、

チームも大きく変わっての新シーズンでした。

個人的に、昨年残した成績を上回ることにモチベーションを置くことは、

かなり高いハードルとなり、厳しいシーズンとなりましたが、

私は新たな目標を作っていたため、

ひとしおに落ち込んだオフシーズンからなんとか立ち直ることが出来ました。

その目標を決めてからは、1日も早く取り掛からないと間に合わないと思い、

このオフシーズンに大胆な肉体改造に取り組みました。

とにかく体を大きくして、エンジンそのものを大きくしようと考えました。

それには理由がありました。

自己最速の球速をマークしたとき、私の体重も同じく自己最重量でした。

この経験から、体重と球速は少なからず比例するのかなと思っていたからでした。

急に体重を増やしたからと言って、球速が上がることがないことは分かっていましたが、

とにかくできること全てをやりつくしてやろうという気持ちしかありませんでした。

球速をあげようと決意した日から、

私はリスクがあると分かっていながらも、急ピッチで肉体改造に取り掛かりました。

年末帰省してた福岡でも、石川に戻ってからも、

ほぼ毎日ジムに通い、とにかく体をいじめ抜きました。

ジムを出る頃は、いつも酸欠のような症状で、車を発進させることも躊躇うほどでした。

 

全体練習が始まる数日前に、

当時のコーチの方とジムのお風呂でたまたまお会いし、新年のご挨拶をしました。

その時、

「そんな体やったか?めちゃくちゃデカくなったな」

と声をかけていただいた時は

小さな達成感を感じ、「よし!」と、心にスイッチが入った気がしました。

 

 

諸刃の剣

 

 

全体練習も始まり、

程よい身体の張り感と、少し小さく感じるようになったユニフォームを身に纏い、

充実感を持ったスタートを切ることができました。

石川の春は雪が残り、まだまだ想像している春とは言えない肌寒いものでした。

私は春先によく、軸足の内転筋を痛めがちなことは自覚していたので、

細心の注意をしながら投球練習を開始しました。

特に今年は急ピッチで肉体改造もしていますし、

怪我のリスクもいつもより上がることも、ある程度準備はしていました。

そのために準備とケアはいつも以上に入念に、意識的にいれていました。

だいぶこの新しい身体に慣れてきて、ギアを徐々に上げていこうとしていたある日のこと、

その日も調子が良く、少しずつキャッチボールの距離を伸ばしていってる時でした。

キャッチボール相手の後輩が投げたボールが少し低めにきました。

この球をいつものように拾い上げようと何歩か前進して、踏み込んでキャッチした時、

「グツっ」と腰に違和感がありました。

その時は特に気にせず、イテテと腰を捻りながら練習を続けて、

何か気になるなーとは思いながらも、大したことはないだろうと、気持ち軽めに練習を続けました。

その日も練習終わりにジムに行きました。

その日はトレーニングはせずに、周りの筋肉をほぐしたりストレッチをしたりと、ケアを目的にいきました。

実は、ジムに行く頃はすでに、痛みが徐々に大きくなっていました。

次の日の朝、

その痛みは、起き上がる時に息を止めないといけないほどになっていました。

 

いろんな思いも重なり、悔しくて悔しくてたまりませんでした。

 

 

見えていなかったもの

 

 

その日から私は故障者として、別メニューのリハビリ生活が始まりました。

せっかく作り上げてきた身体でしたが、急ピッチで取り組んだせいもあり、落ちるスピードも早いものでした。

ましてや体の中心である腰を痛めてしまったせいで、上半身も下半身もトレーニングを続けることが出来ませんでした。

とにかく1日も早く腰を治すことが、その時私がやれる最大の努力でした。

病院に行き、ぶっとい注射を腰にうち、それでも良くならず、

しつこいくらい治療院に通い、なんとか早く治せるようにと頑張っていました。

その時の背中や腰は、治療や注射の跡でボロボロになっていました。

そんなある日、ある出来事がきっかけで、私は今まで気づいていなかったことに気づかされました。

 

当時、チームに新しく入ったトレーナーさんに治療をお願いした時のことでした。

「他の選手を診るから後でいいか?」

と言われました。

私は

「全然構わないです。手のあいた時でいいので診てほしい」

と、伝え、

グラウンドでできることは限られていますが、やれることをやって待っていました。

しかし、待てど暮らせど私がトレーナー室に呼ばれることはありませんでした。

診てもらった若い選手の中には、指のマメを診てもらいましたと言う選手もいました。

練習開始から終わるまでの数時間、時間はたくさんあったはずでした。

指のマメを診るのに何時間もかける意味が私には理解できませんでした。

私は瞬間的に怒りを覚えました。

トレーナー室に怒鳴り込んでやろうと思いました。

しかしその時、少し冷静になり、

今まで私が見えていなかったことに気づき、

その瞬間、私の中で数秒間、時が止まる感覚がしました。

 

今年こそはと目標を立て、一生懸命頑張ってきましたが、

自分の気持ちと、周りの期待にはこれほどの熱量の差があるのかと気づかされました。

私は、皆が応援し、協力してくれるものだと、少し自意識過剰になっていたのかもしれません。

そして周りの人は何倍も冷静に、そしてドライに私のことが見えていたのかもしれません。

 

その日から私は塞ぎがちになり、人を見るようになりました。

自分自身にばかり目を向け、必死に頑張ってきましたが、

熱量が合わない人とは関わりたくないと思うようになりました。

この人は仲間だ。この人は仲間じゃない。

そんなことも考えるようになりました。

そして、より一層殻にこもり、自分自身を信じようと思いました。

スポーツ選手の故障者は、その人の性格にもよりますが、とても繊細です。

ちょっとしたこと、ちょっとした発言にも苛立ち、ナイーブになります。

私もその一種だったんだと思います。

接し難い存在だったと思います。

だけどそれだけ野球に真剣に向き合ってました。

 

そんな中でも、私を応援してくれる人もいました。

その当時、私の相談を快く聞いてくれた金沢の病院の医院長先生。

一般の方の診察と診察の間に特別に治療をしてくれたり、

余った湿布を大量に分けてくれたり。

歯に衣着せぬ言葉使いで、いつも変わらず明るく接してくれて、

励まし、叱咤激励をしてくれました。

この時の恩は一生忘れません。

 

 

巻き返し

 

 

想定外の長い離脱から復帰し、

ようやく試合に復帰したのは夏前でした。

とにかくこれまでの遅れを取り戻し、巻き返していく覚悟でした。

私が合流した時には、ある程度ポジションが固まりつつあり、

昨年、私が任されていたクローザーの役目は後輩が務めていました。

私はそこに繋げるためのリリーフの役目を任せてもらいました。

ポジションなんて正直どこでもよかったです。

とにかくたくさん試合で投げて、どんどん結果を残しアピールをしていく。

それだけでした。

私はスピードを出すために、とにかく腕を振りました。

もちろん任されたイニングを抑えることは最低条件のもと、

チャンスと見ると、

指先が痺れるほど思い切り腕を振りました。

腕を振ればスピードは出てくれてはいましたが、

スピードを出しにいく投球フォームや、制球面での精度ではやはり打ち返されました。

相手打者に打たれると気分も印象も良くありません。

ですが、これは自分でも覚悟していたことでした。

それでも私は何度も言うようにスピードを出すこと一点に集中していくつもりでいました。

そのうえで打者を抑えるぐらいじゃないといけないと、

何があろうとプロの世界に戻りたい。

とにかくがむしゃらに毎日を過ごしました。

 

 

今回は独立リーグ2年目の出来事を書いていきました。

途中、自分の嫌な部分を書かなくてはいけなくて、

情けない内容になってしまいましたが、

その当時の心境は、そこまで追い込まれていたんだと思います。

そのことも含めて伝えることができていれば幸いです。

怪我をしたときの自分は、周りからすると本当に嫌な奴だったと思います。

今思うと本当に迷惑をかけたなと思います。

ただその代わりに、学ぶこともたくさんありました。

視野が狭くなっている状況下での自己の保ち方。

どんな人生でも決して無駄ではない。

無駄にしないことが、何よりも大事だと思います。

嫌な自分を経験して、

今、同じ気持ちや同じ立場に立たされた選手の気持ちが理解できれば、

その経験は今に生かされています。

そんな人の気持ちがわかる指導者をこれからも目指したいと思います。

 

次回はいよいよ3度目の正直

3回目のトライアウトです。

よろしくお願いします。

 

 

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