野球人生を変えた肘の怪我 肘の手術 狂い出す歯車
ゴール目前での2軍降格
シーズン65試合登板をした2010年。
死のロードとも呼ばれていた8月を乗り越え、
9月に入っていく頃、
私の体力はギリギリの状態でした。
若手で明確なポジションのない私は、試合の登板だけではなく、
ブルペンに入るたびに肩を作ってスタンバイをし、
それだけではなく、
試合前の練習時間でも、当時のピッチングコーチつきっきりで、
ネットスローをするという毎日でした。
その頃に、なかなか自分のピッチングができず、
打たれることが多く、どうにかしたいという気持ちはありましたが、
投げすぎているんじゃないか?という不安もありました。
私は投げれば投げるほど体の状態に違和感を覚えていきました。
それほど体はボロボロの状態でした。
そんな中でも、1軍のマウンドで投げられるということが、
本当に幸せでたまりませんでした。
しかし、いつもなら空振りになる変化球も見送られ、
いつもならファールになるストレートもはじき返されるようになっていました。
認めたくはありませんでしたが、
チームの勝利に貢献するための戦力になっているとは、決して言える内容ではありませんでした。
どうにかしないといけないと思い、かかりつけの治療院に通いつめ、
それでも足りず、いくつかの治療院に日替わりで行っていました。
それでも思うように体が動いてくれず、
最終的には、病院で血液検査をしてもらい、
今自分に不足している栄養素を補給するべく、
月に数十万もするサプリメントも藁にもすがる思いで飲んでいました。
その間も、筋力の低下をしないよう、
トレーニングもしながら、この状況を乗り越えたくてとにかく必死でした。
しかしながら、悪い状況を変えることはできませんでした。
そして、シーズンも残り数試合となったある日の試合後、ロッカーで着替えをしていた時、
マネージャーさんに監督室に行くように言われました。
私はその時、2軍に降格するということは察しました。
戦力になれていない現状だったので、仕方ないと思いました。
しかし、初の開幕1軍を勝ち取り、いい時も悪い時もありながら、
時には先輩に守られながらも、それまで1軍で戦ってきて、
残り数試合踏ん張れば、1年間1軍でプレーすることができるというその目前で、
このチームから離れるという現実がなかなか受け入れられなくて、じわじわと辛さがこみ上げてきました。
そして、それの何倍もの悔しさとチームに対しての申し訳なさを感じていました。
人の心を動かす人間
監督室に行くと、案の定2軍に行くことを告げられました。
私はロッカーに戻り、少しずつ物も増え、定着しつつあった自身のロッカーをかたずけていました。
ショックのあまり頭は真っ白で、覚えているのは、とても寂しいという気持ちだけでした。
だけど周りにはそんな姿を見せてくないので、平静を装っていました。
残り数試合というところで2軍落ちしている私の現実を、周りの選手も感じ取っていて、
なかなか私に声をかけてくる選手はいませんでした。
私はこの時、
『これがプロの世界。人の同情している場合でもないし、明日は我が身という思いでみんな戦っているんだから当然だ』
と思っていました。
そんな時、
1人の選手が帰り支度を終えた私服姿で、私のほうに近づいてきました。
そして、
「頑張れよ」
とひと声かけながら、座っている私の足元をポンっと叩いていきました。
その選手は、
鳥谷さんでした。
私はその時、意外な人物からの声掛けにびっくりしていました。
というのも、鳥谷さんとはシーズン中、そこまでたくさん一緒にいるという感じではなく、
たまに食事に連れて行ってもらったり、トレーニングに行ったり、という感じでした。
そんなわずかな時間も私にとっては、とても貴重な時間だと思ってました。
そして、もともとクールな印象で、実際もその印象そのままで、
時に、落ち着いたトーンでいじってもらえる程度の関係性でした。
そんな鳥谷さんが、2年目の若造の私に、全てを察して、励ましの言葉をかけてくれたことにとても感動しました。
と同時に、悔しさと、申し訳なさと、情けなさと、そして大きな寂しさがこみ上げてきました。
私は寮に帰る道中、それまで我慢していた感情が抑えきれなくなり、
泣きながら車を運転して帰りました。
この場をお借りして鳥谷さんにはお礼させてもらいたいと思います。
あの時、鳥谷さんは何気なくかけてくれた一言かもしれませんが、
私はその一言にとても救われ、立ち上がることができました。
本当にありがとうございました。
私も、人の気持ちの分かる人間。
そして、視野の広い人間になれるよう頑張ります。
クライマックスシリーズ
私は、2軍に降格を告げられ、
シーズンをフルで戦えなかった悔しさもありましたが、
首脳陣の方々も、クライマックスシリーズに向けて私を降格させてくれたのだと思い、
そして、そう自分に言い聞かせ、私はクライマックスシリーズには万全の状態で戻ってこれるよう、
気持ちを切り替え、必死でコンディショニングをしていました。
しかし私はそのまま1軍に呼ばれることはありませんでした。
テレビの中で盛り上がる、つい先日まで一緒に戦った選手たちの姿を見て、
とても悔しい気持ちでした。
そして、私は、来年こそは必ず今年以上の結果を残してやると、
その時、心に誓いました。
契約更改とオフシーズン
来年のために体を休めるべく、
秋季キャンプにも参加することはありませんでした。
そして、契約更改では外野の守備を守ったことも少しだけプラス評価してもらい、
年棒の大幅アップ評価をしてもらいました。
しかしながら、後半の息切れと、それで響いた防御率の課題もその時に言われてしまいました。
だけどそんな中、疲労回復を優先しキャンプを不参加にしてもらい、
契約更改でも大きな評価をしてくれた球団にはとても感謝していましたし、
その期待に必ず応えると、強く思いました。
そして私はオフシーズンを迎えました。
私は来年こそはと思い、
肩と肘は休めながら、とにかく走り込み、トレーニングも追い込み続けていました。
本当にこれでもかというほど走り込んだオフシーズンでした。
そしてひと冬越えて、待ちに待った2011年シーズンが始まりました。
違和感だらけの体
2010年のオフシーズンを、これでもかと追い込み、
待ちに待った2011年シーズンが開幕しました。
しかし、自身の期待とはうらはらに、思い通りに結果を残せずにいました。
私はその年の春季キャンプ中にも、軸足である右足の内転筋を肉離れしてしまい、
出遅れてしまいました。
キャンプ中の肉離れの影響もありましたが、
この年は、なぜか、あれだけ鍛え上げてきたはずの下半身が、
全くと言っていいほど、踏ん張りがきいてくれませんでした。
後の検査で分かったのですが、
私はオフシーズンの追い込みのせいで、
左足のすねの骨が疲労骨折で真っ二つに折れてしまっていました。
痛みはずっとあったのですが、
「追い込んできたから疲れてるだけだ、すぐ治る」
と思っていました。
まさかあんなに太いすねの骨が折れてるとは思いもしませんでした。
そして、それに加えて、春先からずっと肘にも違和感がありました。
はじめは
「投げていればよくなってくるし大丈夫」
と思っていたのですが、
その違和感も徐々に痛みに変わっていき、シーズンが終わるころには、
常に痛みがある状態でした。
この年、肘の痛みを隠しながら、踏ん張りのきかない下半身で、
1軍では、21試合の登板に終わりました。
ごまかしながらのピッチングではありましたが、
前の年に課題とされていた、防御率を意識し、
防御率は『1.71』で
シーズンを終えることができました。
しかし、その年のオフには、試合数が少ないと評価をされてしまいました。
前の年に65試合投げているので、ごもっともな評価だったのですが、
キャリアハイを目標にしていたのでとても悔しいシーズンでした。
そして何より、自分自身が納得する球が、一球も投げれていませんでした。
そこが一番くやしく、もやもやするところでした。
私の知らないところで、体は少しずつ壊れてしまっていました。
そして、ごまかしながら投げていた代償は、次の年に仇となって返ってきました。
右肘手術
プロ入りして4度目のオフシーズンを迎えました。
4度目ともなると、ある程度過ごし方や、
トレーニングの仕方などを調整できるようになっていました。
毎年のことではありましたが、
シーズンの終わりごろには、体のどこかがダメージを受けていて、
オフシーズンに休ませればそのダメージもなくなっていき、
春には元気な体に元通りという感じでした。
しかし、2012年シーズンは、想定とは全く違う感覚でスタートをきることになりました。
春季キャンプの段階で、シーズン終盤に感じるほどの肘の痛みがありました。
私は大きな焦りを感じました。
2011年シーズンが終わった時に、肘の手術をするかと提案はありましたが、
私は、保存療法を選択しました。
投げながら、治療とトレーニングで治していくという方法でした。
その理由は、その当時、肘の手術をうけて復帰を目指している選手たちが、
苦労している姿を、近くで目の当たりにしていたからでした。
なので、『手術をするとダメになる』と、無意識のうちに私の中に刷り込まれてしまっていました。
その選択をしたことにより、私は肘の痛みと共に過ごす日々が待っていました。
その痛みは、日に日に大きくなっていきました。
投げては治療をし、夜な夜なトレーナー室に行き治療と、治療なしでは投げられなくなっていました。
たくさん投球をした日には、お風呂で頭を洗うことさえできないくらい、肘に痛みがありました。
2012年シーズンはプロ入り初めて、1軍での登板がありませんでした。
このままでは野球人生が終わってしまうと思い、
その年のシーズン終わりに、手術をうけることを決意しました。
その頃には、常に痛みがあるというストレスと、大きな危機感が、手術の悪い印象を上回っていました。
それが手術をうけると決断した理由でした。
病院に検査をしに行くと、
よく肘の痛みを訴える選手がよく言う、
関節内の遊離体(いわゆるネズミとよばれるもの)は、かなり小さく、
ドクターも手術の必要は半分半分で、本人に委ねるといった感じでした。
しかし、痛みの原因はそれだけではありませんでした。
上腕骨の先端の肘の骨が疲労骨折をしてしまっていました。
ドクターも痛みの原因はそこ(疲労骨折)なんじゃないかと言われました。
病室でドクターは、
「このまま保存療法で骨折を治していってもいいんじゃないか?」
「今が100%の体ならば、手術をするともう100%には戻らない」
とも言われました。
私は、前の年に保存療法を選択しての現状がこの結果だし、
とにかくこの痛みと早くおさらばしたいという強い思いがあったし、
何よりこのままじゃタイガースに居られなくなると思い、
私は迷うことなく、手術をしてもらうようにお願いをしました。
手術をすることで、この痛みがすっきり無くなる解放感を求めてはいましたが、
人生で初めての手術ということもあり不安でいっぱいでした。
その時の病室や待合室は、心なしか暗く、空気も重たく感じました。
手術をうけるまでの数日間は期待と不安で1日も落ち着く日はありませんでした。
私が受けた手術は、
『右肘関節形成術』
というものでした。
実際に行った手術の内容は、
肘の関節内にあった遊離体(ネズミ)を取り除き、痛みや引っ掛かりの原因となる突起部を滑らかに削り取り、
疲労骨折していた部分にドリリングと言ってドリルで数か所穴をあけ、再生を促進するといったものでした。
ちなみに補足ではありますが、診察の時ドクターに、
「肘より、すねを手術したほうがいいんじゃないか?」
とも言われました。
肘の怪我の状況より、すねのほうがひどいという見解でした。
ボロボロの体に自分自身がっかりで、何をしていても体のことで頭がいっぱいでした。
毎晩寝る前に、『朝になったら治ってないかなー』と思ったり。
野球の神様がいると信じ、『お願いします。この体を治してください』とお祈りをしながら寝たこともありました。
まとめ
一見華やかなプロ野球の世界。
しかし、選手は人生をかけて競争しあい、
必死にしのぎあっています。
プロに入るのことでも、死ぬ気で努力しないといけませんでしたが、
プロに入って1軍でプレーするということは、死ぬ気で入ってきた選手たちの中で、
勝ち抜いていかなければなりません。
どれだけ厳しい世界かということは伝わるかと思います。
何気なく見ているプロ野球中継ですが、
1軍で常にレギュラーで出ている選手が、
どれだけタフで、どれだけ凄いことか。
私自身、もっと鍛えて、もっと試合で活躍したかったな、という思いはありますが、
プロ野球界とはいつまでも厳しい世界であってほしいという思いもあります。
『怪我は付き物』と言われていますが、
あるトレーナーに言われた一言はいまだに私の頭に残っています。
「プロ野球選手が怪我をしたら、ただの『人』」
いろいろなとらえ方があると思いますが、私はこの言葉を聞いたとき、
大きな恐怖を感じました。
怪我はそれほど大きな遅れ、存在すらも脅かすものだと、痛感しました。
次回は手術後のリハビリ生活。
怪我をして学んだこと。
そしてその後。
を書かせてもらいます。
【阪神タイガース時代】
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