プロ野球生活 阪神タイガース シーズン開幕
プロ野球選手としてシーズン開幕
キャンプで思うようなアピールができなかった私は、
当然2軍スタートでした。
1軍のホームグラウンドは、誰もが知っているであろう野球の聖地、『甲子園球場』です。
2軍である私のホームグラウンドは、基本的に『鳴尾浜球場』でした。
いつかは1軍に上がって、甲子園球場でプレーするんだ!と思っていましたが、
その当時の私は、1軍での環境なんかも全く知らなかったので、比べようもなく、
ただただ、シーズンが開幕することにドキドキ、ワクワクしていました。
シーズンが始まれば、どんな生活が待っているんだろう。
どんなふうに変化するんだろう。
果たして自分はプロに通用するのだろうか。
ほぼ毎日試合がある中、怪我せずにやっていけるだろうか。
と、いろんな思いの中にいました。
そんな中、いよいよシーズンが始まっていきます。
ポジションは『中継ぎ』
シーズンがスタートし、私が任されたポジションは中継ぎでした。
試合が始まると、指定されたイニングに、ブルペンに入り、待機し、
試合を見ながら登板を待つという感じでした。
試合が終盤になればなるほど、責任も重大になってくるので、
いい投手が試合の後半に待機するという感じでした。
新人の私は、もちろん最初からブルペンに待機して、先発ピッチャーが早い段階で崩れるか、
ボールが当たったり、故障したときなんかの、いわば『トラブル要因』でした。
ブルペン待機の中でも、ただ試合を見るだけじゃなく、いろいろな仕事がありました。
最初からブルペンにいる投手は、簡易的なスコアのようなものを書き、
先発投手の球数や、相手打者一人一人の結果を書いて、
後からブルペン入りしてくるピッチャーが確認できるようにしておかなくてはいけませんでした。
その他にも、交代するピッチャーへ水を渡したり、タオルを渡したり、
アウトカウントや、試合状況を伝えたり、一球一球のカウントを、準備しているピッチャーに伝えたりと、
ブルペンも1つのチームのような感じでした。
何もかもが初めてな私は、全てが新鮮で、勉強になって、とても充実していました。
しかし、その中でも、試合後半にブルペンに登場し、
颯爽と試合を締めくくりに行く、セットアッパーやクローザーにとても憧れていました。
下から這い上がっていくという、現状や立場にとてもやりがいを感じていました。
試合の日の選手の流れ
2軍の試合は基本的にデイゲームでした。
朝、起床し、寮生である私は、決まりである鳴尾浜球場内を散歩し、
そのまま朝食を食べに行きます。
そして、朝から練習が始まります。
アマチュア時代は、試合があるときでも、アップをしたら、すぐに試合が始まるという流れだったので、
試合の前に練習をすることに、試合前に疲れてしまうんじゃないかと、初めは戸惑いました。
アップをして、キャッチボールをし、ノックを受け、
ランニング、体幹メニューと、一通りの練習メニューをした後、
相手チームが練習をしている間に、昼食をとり、
昼過ぎから試合が始まります。
そして、試合が終わるとそこからさらに、
ランニングメニューや、ウエイトトレーニングをします。
そして、寮で夕食を食べ、部屋で自分の時間を過ごすといった感じでした。
夕食を食べる時間は、ちょうど1軍のナイターゲームが始まる時間で、試合を見ながら夕食を食べていました。
テレビで流れる試合を見ながら、
テレビに出ている選手がアマチュア時代とは違い、同じチームのユニフォームを着ている不思議な感覚と、
いつかは自分もこの舞台でプレーするんだ!という思いを持ちながら、夕食をとっていた記憶があります。
このように、1日中野球漬けで、
野球と共に生きているような感じでした。
厳しい監督に『勝負』を学ぶ
当時、2軍も監督をしていた方は、
勝負にこだわるとても厳しい方でした。
私の勝手なイメージで、2軍の環境は、選手の育成や、技術の向上、怪我の治療など、ゆるくのびのびと野球をするところだと思っていました。
別に嘗めていたわけではないのですが、ここまで厳しいとは思ってもいなかったということです。
2軍を別名『ファーム』というので、そのせいで、私の間違えたイメージがあったのかもしれません。
2軍のチームの雰囲気は、簡単に言うと、
負けることは、絶対に許されない。
ミスをしたら一巻の終わり。
という感じでした。
私の中で印象的な出来事といえば、
ある日の練習前のウォーミングアップをしている時のことでした。
一通りアップも終え、次のメニューであるキャッチボールに行こうとしていたら、
監督から全員集合がかかりました。
そして監督から一言。
「やりなおせ」
この言葉に、現場の空気は一気に張り詰め、
なんと、ベテランも若手も関係なく、もう一度、最初のストレッチからウォーミングアップを『やりなおし』ました。
この時は怖いなーとばっかり思っていましたが、
後々、この意味に気付いていきました。
やはり、プロである以上、アマチュアの見本にならないといけないし、
『野球』のプロならば、『野球』でミスをすることは、許されてはいけないことです。
そのために、ウォーミングアップの一つ一つの動きでさえ、気を抜いてはいけないと思いました。
全てがお手本となり、アマチュアができないことをやるのが本当の『プロ』なんだと思いました。
とっても怖く、厳しい監督でしたが、
私は本当にこの監督でよかったと思っています。
この監督だったから、多くを学び、今の自分があると思っています。
本当に感謝しています。
中継ぎから『クローザー』へ
中継ぎとして、2軍に登板していた私は、
結構早い段階で、試合の最後を任される『クローザー』をさせてもらえるようになりました。
当時の阪神タイガースでは、1軍の救援投手の代表格でもある『JFK』という不動のブランドがありました。
これは、試合の7、8、9回を締める投手の頭文字からなる言葉で、
中継ぎをしていた私にとって憧れの存在でした。
なので、2軍とはいえ、試合の後半を任されることで、憧れの『JFK』に少しだけ近づけたんじゃないかと、勝手に喜びを感じていました。
そして私は、試合で投げられる喜びと、クローザーをさせてもらえていることに大きなやりがいを感じながら、
充実した毎日を過ごしていました。
結果、私はこの年、2軍では、チーム最多となる36試合に登板させてもらうこととなりました。
そして、チームが交流戦を戦っている6月に1軍に昇格することになりました。
次回に続きます。
阪神タイガース その1プロ野球選手になってからの生活 阪神タイガース
阪神タイガース その3プロ野球生活 阪神タイガース 1軍昇格 初登板
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