高校時代補欠選手がプロ野球に行くまで 恩師との出会い 必死だった大学生活【前編】

2020年1月8日

失敗したくない大学選び 悩みから起きた病気

高校生活に苦しい思いをし、高卒でプロに行くという夢も破れた私は、

大学選びではミスをしたくないと思っていました。

正直に言うと、野球を続けることも悩んでいました。

また、辛いであろう1年生からスタートするわけだし、高校3年間と違い、1年多い4年間の生活が待っていることに、

前向きな気持ちより、憂鬱さが勝っていました。

そして、大学選びを悩んでいるころ、「運動性喘息」という今まで出たことのなかった病が、私の身体に起きました。

普段は何ともないのですが、運動すると、息苦しくなり、咳が止まらなくなるというものでした。

病院の先生には、もちろんですが「激しい運動は避けてください」と言われました。

しかし、これまで出たことのなかった病気が出たことに疑問を抱いていました。

おそらくこの病気の原因は、悩みから来るストレスだろうと、自分で感じていました。

私は、この病気が分かった時、正直、少しホッとした気持ちにもなりました。

「神様が野球を辞めなさいと言っているんだ」「もう、あんな苦しい思いをしなくていいんだ」

と思ってもいました。

その頃の私は、後ろ向きで、弱気なことばかり考えていました。

 

 

弱かった自分との戦い、決意をした時

その病気が発覚し、家に戻り、野球を辞めることを伝える予定で、家族に報告していた時、

両親はとても残念そうな顔をして、私の話を聞いていました。

心のどこかで、私が野球を続ける事を諦めているようにも見えました。

私はその顔を見た時、野球を辞めるなんて、とても言えないなと思いました。

その頃、3つ上の兄は、関東の大学に行ってしまい、

家族は、私が近くの大学に行き、また球場で応援しようと、楽しみにしていたんだと思います。

私は、そんな家族の為にも野球を辞めるわけにはいかないと思いました。

こんな急に出てきた病気や、高校の時のような辛い思いをしたくないという情けない理由だけで、逃げ回っている自分にも、負けたくないとも思いました。

それと、高校を卒業するころに抱いていた、「見返してやる」という気持ちが再び高まってきていました。

そして、その頃、私の気持ちを突き動かすことがもう一つ起きました。

 

 

大学のセレクションを受ける日々の中生まれた反骨精神、そして恩師との出会い

高校時代実績のない私は、大学探しに苦労していました。

知り合いや先輩に連絡を取り、テストやセレクションに参加させてもらえるようにお願いをしていました。

そんな中、私のもとに一本の連絡が来ました。

私が通っていた高校は、大学の付属高校だったのですが、

その大学から、「テストを受けてほしい」と誘いが来たのです。

私は、その時、驚きと、それ以上に大きな怒りがこみ上げてきました。

高校時代にあんな思いをしたのに、よく平気で誘えるな、どうゆうつもりなんだ。と思いました。

あんな思いをした高校の付属大学なんて絶対に行きたくないと思いました。

高校の時のことは補欠だった高校時代 補欠選手がプロ野球選手に 壮絶な過去(閲覧注意)に詳しく書いてあります。

 

練習参加やセレクションには何校か行かせてもらっていたのですが、手応えはなかなかありませんでした。

それはやはり、高校時代に実績がないことが大きく関係していました。

同じタイミングに、この大学と同じリーグの(結果行くことになる)大学の練習参加をしていました。

そこで私の恩師となる監督に出会えることができました。

その監督は、高校時代に全くと言っていいほど実績のない私のピッチングを見て、

「ぜひ、うちに来てほしい。いろいろ練習参加をしてもらって、最終的にうちを選んでほしい」

と言ってくれました。

そのあともほかの大学をまわる予定でしたが、その時すでに私の気持ちは固まっていました。

付属の大学は、当時、「特待」を用意してくれるという話でしたが、来てほしいと言っていただいたその大学の、「スポーツ推薦」で受験することにしました。

そして、同じリーグであるその付属大学を完全に抑え、絶対に見返してやる。という気持ちが芽生えていました。

その頃には、野球を辞めるなんてことは少しも考えておらず、

早くやり返したい。見返してやるぞ、という気持ちでいっぱいでした。

 

 

高校以上の衝撃を受けた大学1年生、私を変えた恩師の一言

受験も終え、無事、大学に入学し、野球部に入部もできて、

最初に驚いたのは、まず、部員数の多さでした。

1学年約、30~40人いて、チーム全体では約120人くらいいました。

その中からレギュラーメンバー9人にならないといけませんでした。

そして同級生には他高校でエースだった選手や、140キロ後半を軽々投げる選手もいました。

高校を卒業したての私からしたら上級生がすごく大人に見えて、高校の時とは雰囲気が全く違って見えました。

けど、その時の私には、そんなことどうでもよかった。

高校の時の反省を生かし、1年生から貪欲にレギュラーを目指していく決意をしていました。

 

私は夜間主コースという、夜間に授業を受ける学科のコースを選びました。

その理由は、野球部の全体練習が昼から始まるため、しっかりと練習に時間が取れるというのと、

夜間のほうが、学費も多少安くなるからでした。

私は毎日毎日、必死に練習に励んでいました。

そんな日々を過ごしていたある日、1年の春ごろ。

いつものように球場の本部に行き、監督に挨拶をして帰ろうとしたときのことでした。

監督に呼び止められ、

「憲は、ここを卒業したら、どうなりたいんだ?」

といきなり聞かれました。

私は、びっくりしましたが、もちろん、

「プロ野球選手になりたいです」

と、答えました。

正直私は、笑われ、否定されると思っていました。

なんせ高校の時に補欠で、実績のない選手です。

すると監督は、

「それなら、体が細すぎる。ウエイトトレーニングをしたり、体を大きくしなさい」

と、言われました。

私は、その返答が素直にとても嬉しくて、その日のうちに近くのトレーニングジムに契約をしに行きました。

監督は、こんな私に可能性を感じてくれていたのです。

私の中で曇りかけていた夢に一筋の『光』が差し込んだ感覚でした。

 

その日からの私の生活は、

朝起きて、昼からの練習に合わせて、1時間弱かかる通学を下半身強化とお金の節約のために自転車で通い、昼からの全体練習に汗を流し、夕方から最後は夜の9時まである授業を受け、それからジムに通い、トレーニングをして、自転車で1時間弱こいで帰り、夜、寝るのは深夜になることもありました。

その間、体を大きくするために、一日4~5食、食べるようにしていました。

奨学金を借りていた私は、その中から、ジム代や家以外の食費などにあて、その中で貯めたお金で、道具を買ったりしていました。

なるべく、家に負担をかけたくなかったからでした。

今思うと、ハードで大変な生活でしたが、この経験のおかげで今があると思っています。

そして不思議なもので、その頃には、「運動性喘息」は一切出ることはありませんでした。

前だけ見て頑張っていたから、体が病気を治したんだと、私は勝手に思っています。

監督とのそのやり取りをきっかけに、監督はその後も、私をプロにいかせるように指導をしてくれました。

 

 

最後に

今回大学の時のことを書こうとしていたタイミングで、嬉しいニュースが飛び込んできました。

私の恩師である大学の監督が、

侍ジャパン大学代表の監督に選出されました。

監督としても、人間としても、間違いない選出だと思いました。

なるべくしてなった日本代表監督だと思います。

私がプロにいってからというもの、ほぼ毎年プロ野球選手を輩出し、全国大会にも常連校として活躍されていました。

心から、大学日本代表を応援します。

頑張れ!日本代表!

頑張れ!監督!

 

 

次回は

大学生活の後編を書かせてもらおうと思います。

プロ野球の世界に入るまでの、アマチュア時代の話です。

どうすればプロ野球選手になれるのか。

どうやってプロ野球選手になれたのか。

私の実体験を書かせてもらいます。

同じ目標を持つ人たちのヒントに少しでもなれたら嬉しく思います。