補欠だった高校時代 補欠選手がプロ野球選手に 壮絶な過去(閲覧注意)
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夢と希望をもって入学
小、中とエレベーター式に上がったいったのと違って、人生で初めての選択を迫られた高校選び。
どうしても甲子園に出場したくてとにかく強い高校に行きたかった。
その当時福岡で野球が強い高校といえばたくさんあって、どこに行けば甲子園に近いかなんて分かりませんでした。
なので、よくある野球漫画のように自分でチームを強くして甲子園に出るんだ!と考えてました。
3つ上の兄は3年生の春にセンバツ大会に出場し、全国の大舞台で大活躍をしていました。
私はテレビにくぎ付けで、兄のことを応援していました。
テレビの向こうでプレーしている兄はキラキラ輝いて見えました。
そのせいもあり、甲子園出場の思いと、自分たちの代で甲子園に出て、自分も活躍したいという思いも強かった。
当時私は、同級生にたくさん連絡を取り、情報を仕入れ、同世代の上手い選手たちが集まる高校に入学することにしました。
同世代のスター揃いの高校生活スタート
高校に入学し、もちろん野球部に入部すると、中学時代に各リーグで有名だった選手たちが集まっていました。
私自身も中学時代に、全国大会に出場していた過去もあり、自信に満ち溢れて入部しました。
甲子園出場の前に、レギュラーを取るためにこの同世代たちに勝っていかないといかなければなりませんでした。
練習が始まると、基礎練習が多かったのですが、さすがにリーグで有名だった同級生たちなので、レベルが高かった。
とびぬけて足が速い選手だったり、肩が強い選手だったり、めちゃくちゃ打球を飛ばす選手に、自分よりはるかに球が速い選手もいました。
そして何より、ピッチャーがものすごくたくさんいました。
すごい選手がたくさんいて、激しい競争もありましたが、ワクワクもしていました。
とにかく一生懸命に練習をして、ライバルに勝って試合に出るために、必死にやっていました。
雑用、縦社会、やることが多い1年生
ワクワクして入学し、練習も始まり目標に向かって進みだしていましたが、高校1年生はご存じのとおり、練習の準備から、グランドの整備、掃除や後片付けと、やることがたくさんありました。
朝は早く、夜は遅く帰り、家では風呂に入って寝るだけという生活でした。
高校には寮があったのですが、私は家が近いこともあり、自宅から通うことにしていました。
今思うと、そこも選択ミスだったのかもしれません。
どうしても、寮生と自宅生には壁が生まれ、当時主力で活躍していた先輩たちも寮に住んでいたせいか、見えない差のようなものも出始めていました。
学校でも、寮生との話が合うことは難しく、自宅生や違う部活の生徒と話をしたりする程度でした。
先輩たちはとても迫力があり怖かったような気がします。
唯一自宅生の先輩が優しく接してくれました。
とにかく早く3年生になりたい。上級生は早く卒業してくれ。と思っていました。
待ちに待った最上級生、しかし、、
とっても長い1年生が終わり、少しずつプレーも見てもらえるようになりながらも、それでもレギュラー以外はしんどい2年生が終わり、ようやく最上級の3年生の生活が始まりました。
しかし私が期待していた3年生の生活は待っていませんでした。
おかしくなり始めたのは2年生の終わり頃でした。
1つ上の先輩たちに目を付けられはじめ、その影響からか、同級生もあたりが冷たくなってきていました。
私は特に気にはしていませんでしたが、居心地はよくはありませんでした。
そして3年生になり、だいぶまわりの冷ややかな対応もなくなっていきましたが本当につらかったのはこれからでした。
チームを強くするためにポジション転向
私はピッチャーとしてプレーしていたのですが、ショートのポジションが戦力的に落ちることが気になっていました。
入学当初ピッチャーをしていた選手たちはそのころ、試合に出たいからか、野手に転向したり、サイドスローに転向したりと様々でした。
私はもちろんピッチャーとしてやっていきたかったし、エースになりたくて、頑張っていました。
しかしこのままでは甲子園に出場することは厳しいんじゃないかと思い、バッティングも好きだった私は、意を決してショートをやらせてほしいとお願いしに行くことにしました。
その願いは意外とすんなりと了承してもらえて、私はショートを守ることになりました。
そのあとは、ピッチャーもやりながらショートも守り、時には外野に守りにつくこともありました。
私の記憶では、キャッチャー以外のポジションはすべて守っていたと思います。
なのでいつもカバンの中にはピッチャー用、内野用、外野用と、3つのグローブが入っていました。
試合に出れる喜びと、レギュラーで甲子園を目指せる充実感でいっぱいでした。
些細な言い合いから始まった本当の地獄
ここからの話は私が高校生の時の話なので、今でいうところのパワハラや、暴力があっていた時代の話として理解していただきたいと思います。
私が3年生の春、ある試合で先発をさせてもらった時、同級生が首脳陣に言った発言がどうしても納得がいかず、話し合いをしようとしに行こうとその選手のところに向かっていってた時、私は後ろから首元を引っ張られベンチの外に投げ出されました。
当時のコーチの方でした。
そして鉄拳制裁を受け、ベンチの外にいるよう命じられました。
私には全く理解ができなく、呆然と立ち尽くし、試合が終わるのを待っていました。
その日を境に、私は、何をしても、監督、コーチに怒られるようになりました。
完全にいじめがスタートしました。
練習でノックを受けていても、1回エラーしただけでノッカーに呼ばれみんなの前で殴られ、
ミーティングに参加したら、「なんでお前がいるんだ?」と言われ、
だからと言ってミーティングに出なければ、「なぜミーティングに出ないんだ?」と言われ、
練習試合でサヨナラホームランを打った日にも、少しガッツポーズをしただけで、「よくあんなピッチングをしといてガッツポーズができるな」と選手がいる前で言われ、みんなに笑われ、
私はみるみるチームから浮いていくようになりました。
首脳陣に無視され、絡まれるとしたら、怒られるときか殴られるときくらいで、そのせいか、選手たちともまったく話すこともなくなっていきました。
挙句の果てには、学校の担任の先生にも「野球していたのか?」とも言われました。
スポーツクラス(部活動生ばかりのクラス)だった私は、グランドだけではなく、教室でも居心地が悪くなっていました。
そんな生活の中、チームは春の予選を勝ち上がり、念願だった春のセンバツ大会に出場することになりました。
私はレギュラー番号の背番号が欲しくて頑張っていたのですが、そんな状態の日々の中、目標はベンチ入りすることに変わっていってました。
その結果、何とかギリギリでベンチ入りし、18人ベンチ入りの『17』番をつけることになりました。
そしてチームは甲子園大会でも2試合勝ち進み、3回戦で敗れました。
その3試合で私の出場機会はありませんでした。
いつものようにグローブを3つバックに入れて出場機会を待っていましたが、声をかけてもらえることはありませんでした。
ピッチャーが打たれはじめ、リリーフの準備をしようと、ブルペンに向かった時も、ベンチからブルペンに「伝令」が走ってきて、ベンチにいるように命じられました。
グランドに出ることも許されませんでした。
私が憧れていたあのキラキラした兄のように、甲子園でプレーするという目標は、叶えることはできませんでした。
宿舎に帰り、同級生たちが公衆電話から親や友達に連絡をし、いろいろ楽しそうに話をしている中、私も実家の家族に電話をし、「今日も出なかったよ」と報告をするだけでした。
試合にも出ていない選手が電話をすることすら恥ずかしくも感じていました。
電話をした後、悔しくなり隠れて泣いていたこともありました。
チームが3回戦で敗退したとき、皆がよくテレビで見るように甲子園の砂を集めている中、砂を拾わず立って待っていました。
そこには、試合にも出ていないのに地面に這いつくばって砂を集めることの恥ずかしさと、またここに帰ってくるんだという強い思いと、何よりも大きなプライドがあったからでした。
その頃はまさかそこが、後のホームグランドになるとは思ってもいませんでした。
その後、夏の大会の予選は、いよいよベンチにも入れてもらえず、スタンドで応援することとなりました。
最後に
今回は、暗く、息苦しい話でしたが、読んでいただき、ありがとうございました。
結果的に、私は高校生活でこれといった実績も残すことはできませんでしたが、プロ野球選手になれました。
高校を卒業し、大学4年間を経て、プロの道に行くのですが、そのことはまた、書かせてもらいます。
今思えば、この地獄の高校生活があったから、多少のことでは何とも思わないし、反骨心や雑草魂みたいなものが身についたんだと思います。
もし、今苦しんでいたり、辛い思いをしている人も、いつか必ず、その苦しみが、人にはできない大きな経験になると思い、歯を食いしばって頑張ってほしいと思います。
楽して楽しむよりも、苦しんで悩んだほうが、人は大きくなるし、成長すると思います。
今しんどくても、いずれそれは笑い話になって、大きくなった自分とともに返ってきます。
とにかく、辛くて苦しくても、自分の夢や目標に向かって突き進んでほしいと思います。
どんなことがあっても、諦めず頑張っていれば、夢は叶います。
どんなことがあっても、諦めず頑張っていれば、明るい未来が待っています。
もうひと踏ん張りしてみましょう。
読んでいただいた皆さんに、明るい未来が訪れますように。
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