独立リーグでの生活 石川ミリオンスターズ入団 契約
新たな生活
阪神タイガースでのプロ野球生活を終え、
野球人としての第二の人生は
北信越にある独立リーグ、BCリーグでした。
私の中でたくさん悩み、海外の野球にもチャレンジしてみたいという気持ちもありましたが、
コンディショニング面や、生活面、それに、日本のプロのスカウトの目の届く場所、など、
いろいろと優先順位を考えた結果、日本の独立リーグという答えに至りました。
独立リーグは四国アイランドリーグと、北信越にあるBCリーグ、関西独立リーグなどありました。
その中には、私同様、プロ野球を戦力外になり、再び夢を掴むため、
または、野球がやめられない、など、
動機は様々ですが、元プロ野球選手も何人か所属していました。
その当時、プロ野球を戦力外になって、それでももう一度プロ野球界に戻りたいと思う選手が、
まだやれることをアピールをするため、独立リーグに行くという、いわば流れのようなものもありました。
決して流れに甘えたというわけではありませんが、ほんの少しでもチャンスがあるのならばと、
その流れと、まだ野球ができるという受け皿にありがたみを感じながら、独立リーグに行くことにしました。
私は石川県の金沢市にある、石川ミリオンスターズにお世話になることになりました。
実の兄が四国アイランドリーグの独立リーガーだったので、
何度か独立リーグの試合を観戦しに行ったことはありました。
ある程度、レベルや環境なんかは把握していましたが、
内情を詳しく知っているわけではありませんでした。
ただアバウトに、厳しい世界だということは耳にしたことがある程度でした。
ただ、その当時の私は、
『野球がしたい』
という気持ちと、
『もう一度アピールをして、プロ野球の世界に戻りたい』
この気持ちだけが、原動力になっていました。
なので、厳しい世界なんて言われても、どうってことはありませんでした。
とにかく、プロ野球の世界にもう一度行って勝負がしたいと思っていました。
そんな強い気持ちを胸に、私は石川県に向かいました。
契約
石川県の金沢市にある小さなバッティングセンター。
その中の片隅にある小さな部屋の中に、
ぎゅうぎゅうに荷物や球団のグッズなどが詰まった球団事務所がありました。
私はスーツを着て、その中にあるテーブルとパイプ椅子の契約の席に着席しました。
少し待っていると、球団の社長さんと、もう一人球団職員の方が来られました。
私は立ち上がり挨拶をしました。
挨拶を終え、職員の方から話がありました。
リーグやチームの説明と、契約の話でした。
契約の説明の内容は、ほとんどが給料面やグッズなど、お金の話でした。
詳しく書くことはできませんが、
前の年にもらったプロ野球の給料にかかってくる税金が払えるかどうか、
心配になるほどの一月分の給料が契約書に書かれてあり、
そしてその給料は、シーズンが行われる6ヵ月の給与との説明でした。
簡単な計算で瞬時に年棒がわかるほどの額でした。
シーズンオフには給料も発生しないので、
残りの6ヵ月、選手たちはバイトをしながらの生活だということも聞かされました。
そしてさらに、プロ野球に戻ることができた場合、
プロでもらう給料から、リーグの決められたパーセンテージを2年間お世話になったチームに納めるとのことでした。
お礼金のようなものなのか、詳しくは分かりませんが、そのような契約内容もありました。
単純計算で、場合によってはチームに納める金額のほうが大きくなることもある内容でした。
そんな内容が書かれた契約書を見ながら、話を聞いている時、
別にお金を稼ぐためにここにきているんじゃないし、
給料なんてどうでもいいと思っていたのですが、
いざ、お金の話をされると、
はたして生活ができるのかと、不安で心臓の音が聞こえてくるほどドキドキしていました。
ひと通り話を聞き終え、よろしくお願いしますと、頭を下げ、契約を結びました。
部屋を出る時私は、その不安のおかげもあってか、
シンプルに、野球ができることに喜びを感じるようになっていました。
そして、より一層チャレンジする気持ちに火がついていました。
何か吹っ切れたというか、
想像を超える厳しい環境、厳しい条件を叩きつけられ、
この石川の地からもう一度這い上がってやると、覚悟が決まった瞬間でもありました。
白銀の世界
石川県のイメージと言えば、
雪が積もった庭園や、露天風呂なんかの映像が浮かんできます。
私が初めて練習を見学させてもらった時も、
雪が積もった球場の中を選手たちがランニングをしているという異様な光景でした。
私は、金沢市にある小さなアパートを借りました。
アパートは2階建てで、私は2階の部屋でした。
もちろん生活の手当補助なんてなく、
契約した給料の中で、生活のすべてをやりくりしていかなければなりませんでした。
確実に貯金を切り崩していかなければなりませんでした。
そんな小さな不安はたくさんありましたが、
その度に、絶対活躍してプロに戻るんだ!と気持ちを奮い立たせ、
不安な気持ちを抑え込んでいきました。
練習初日の朝、
やる気に満ちていた私は、スパッと目が覚めました。
目覚めが爽快だったところまではよかったのですが、
その日も当たり前のようにとても寒く、
カーテンを開けると、
雪が積もっていました。
部屋の窓から駐車場が見えるのですが、私の車を見ると、
タイヤが見えなくなるほど雪が積もっていました。
そして、それでもなお、しんしんと雪は降り続いていました。
やる気満々だった私の気持ちはゆらゆらと揺らぎ始めていました。
こんな中練習なんて、、と思い、
念のため、携帯に練習の中止の連絡が来ていないか確認をしました。
携帯もこの寒さに凍えるように、静まり返っていて、
この雪の中練習が行われることが確定しました。
意を決して、準備をし、
びくびくしながら、安全運転で球場に向かいました。
不思議な感覚
球場に到着すると、
若い選手たちが何人かロッカーに居ました。
軽く挨拶をして、適当に空いてるスペースに荷物を置き、
珍しい雪の球場を眺めていました。
次々と選手が球場入りをして、
私が雪を見るような表情で、選手たちは私のほうを見ていました。
ものすごく気まずい時間が過ぎ、集合時間になりました。
私は無難な自己紹介と挨拶をしました。
選手たちもそこでようやく私の正体を知り、
ようやくチームの一員として合流することができました。
いよいよ待ちに待った練習が始まりました。
球場は雪が積もっていて、使うことができませんでした。
その日は同じ施設内にある、室内の陸上練習場を使いました。
陸上のトラックの地面(タータン)が約100メートルの確か5レーンくらいでしょうか、
かまぼこ型の屋根付きの陸上施設でした。
雪国ならではの施設に感動しながら、
その中で、アップ、ランニングトレーニング、体幹トレーニングと、
基礎的な動きをたっぷりと行いました。
その間もおそらくはほとんどが年下の選手からの、物珍しそうな視線をたくさん浴びました。
プロ野球選手を目指している集団の中に、去年までプロ野球選手だった人が入れば、
注目されるのも、無理はありません。
独特な緊張感の中、練習を終えました。
午前中に練習を終えると、午後はフリーでした。
こんなにフリーな時間があることが、初めは違和感でした。
だけど、自分の時間が確保できることをプラスにとらえ、
午後は自主練習の時間だと思って過ごすことにしました。
独立リーグは、各チーム、地元の企業さんがスポンサーになってくれていて、
地元の地域の皆さんと支えあって成り立っていました。
石川ミリオンスターズはその中に、とても立派なスポーツジムがありました。
そこは、トレーニングジムに、プールに、温泉にと、とても充実した内容でした。
私はほとんどの午後の時間をそこで過ごさせてもらいました。
私の中でその時は、案外恵まれた環境にあるなと感じていました。
任されたポジション
積もっていた雪も解けて、
少しずつ暖かくなってきました。
それでも遠くの山や、道路の隅っこにはまだ雪が残っていました。
石川県の生活にも慣れ始めたころ、
オープン戦が始まりました。
私は少し遅めの調整をさせてもらっていました。
あまりオープン戦に登板することはありませんでしたが、
その間も、仲間がどんなプレーをするのか、
そして、どんな対戦相手なのかチェックさせてもらっていました。
最年長ということもあり、ある程度過ごし方を任せていただいた当時のコーチには感謝しています。
そしていよいよリーグ戦が開幕しました。
私の任されたポジションは、
『クローザー』
でした。
プロ時代にほとんどリリーフをしていたこともあり、
どこか自然に、そのポジションを任せてもらうことになりました。
とにかくアピールして、
プロの世界に戻りたいと思っていた私は、
どんなポジションでも必死に頑張るつもりでいました。
対戦する選手は一本のヒットも与えず、全員抑えてやろうとも思っていました。
そして私の新たな戦い、
『2度目の就職活動』が始まりました。
本当の厳しさを知る
「独立リーグは厳しい環境だ」
と、よく耳にします。
プロ野球の世界から独立リーグに行った私が感じた環境の違い、厳しさと言われてる点を、
ここで正直に書かせてもらおうと思います。
まずは、当然のように球場、設備、そして道具、
すべてにおいて、質が落ちるというところです。
球場は県立球場、もしくは市民球場といった感じです。
練習場に至っては、雑草交じりの芝が生えているグラウンドでした。
防御ネットなんかも古く、ボールもボロボロでした。
アマチュアではそれは当然のことなのですが、
一度プロ野球の恵まれた施設を使わせてもらうと、その落差を大きく感じました。
そしてもう一つは、スタッフがとても少ないということです。
球場の整備、練習のための設営、試合の準備など、
すべてを選手が行います。
中でも印象深いのが、
試合のたびにスポンサーさんのバナーと呼ばれる大きな横断幕を、
外野フェンスにびっしり、一枚一枚みんなで設置していきます。
もちろん試合が終わればそれをまた一枚一枚はがして、折りたたんで片付けていくという作業です。
薄暗い照明の中、最初はこんなことまでするのかと、驚きました。
そして、初めのほうにも書かせていただきましたが、
経済的な問題です。
若手の選手なんかは、ほとんどの選手が仕送りをもらいながら、という生活でした。
何人かの選手は私に給料を教えてくれたのですが、
驚くことに、その中には、月の給料が一桁の選手もいました。
そんな中で夢を追いかけ、
スポーツ選手なので、体作りや、ケアもしていかなければなりませんでした。
そして私が一番つらかったことは、
『移動』でした。
独立リーグの移動手段は、基本的にほとんどがバスです。
その移動時間は約2時間から、最長で7~8時間のバス移動もありました。
バスのモデルは、一般的な高速バスをイメージしてもらえるとわかりやすいと思います。
2列のシートの間に補助席といった感じです。
決して広いとは言えないバスに、独立とはいえ野球選手の大きな体です。
移動の過ごし方によってはコンディションを崩してしまう選手もいました。
それぞれ、バスでの過ごし方に工夫を凝らし、
外国人選手なんかは、真ん中の通路の床に布団を敷いて寝ていました。
私は最年長ということもあり、1番後ろの席に座らせてもらいました。
1番後ろの席は広いイメージだったのですが、
意外にもリクライニングの制限があったり、窓が開かない時があったりと、
本当につらくてハードな移動でした。
ナイターゲームが終わり、大きなバスでコンビニに入り、
大勢で夕食を買いに行き、
バスの中でコンビニ飯の夕食をとり、移動しながら一夜を過ごし、
次の球場でまた試合という日もありました。
こんな環境の中、
体調は保てるのだろうか。
結果を出して、しっかりプロ野球界にアピールすることが本当にできるのだろうか。
不安との戦いでした。
次回は、
その結果。
そしてその後。
そこで得たもの。
など書かせてもらいたいと思います。
よろしくお願いします。
【阪神タイガース時代】
プロ野球選手生活 阪神タイガース フレッシュオールスター アリゾナフォールリーグ
手術後のリハビリ生活 もどかしい日々 そして近づく終わりの時
【独立リーグ時代】
現役続行を希望 トライアウト 独立リーグ 石川ミリオンスターズ
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません