「ピッチング革命 case3」

先日、ある投手から一本の電話があった。
その投手は、以前所属していたチームで指導をしていた投手であった。
「相談なのですが」という言葉から始まり、その内容は、
「この前投げた試合で打たれてしまいました。そして指導者の方に『怖さがない』と言われました。どうしたら怖さって出るんですか?」というものであった。
現役時代、全く同じことを言われた経験があった。
「怖さがない」
当時、私なりにもその言葉の意味を理解しようと悩んだ時期があった。
打者にとっての怖さとは。
打者がのけぞるほどのインサイドを攻めたら怖さがでるのか。
顔の近くに投げ込んでいくことも時には必要なのか。
そもそもボールの威力が足りないのか。
投球フォームで怖さを出すことも可能なのか。
悩んだ結果、出た答えは、
この程度の軽薄で幼稚な答えにしかならず、
納得をして取り組んでいけるほどの答えには辿り着かなかった。
電話をかけてきてくれた選手も、
おそらく当時の私と同じ心境で、
どうしたらいいかわからない状態だったのだろう。
当時、私の中で導き出した答えを、その時の過程を含めながら伝えることにした。
そもそもバッターが感じる怖さとは一体なんなのか。
まずはそこを知る事である。
ひとまず、
怖さには「種類」が存在すると仮定してみる。
打者は、
バットに当たらないという怖さ。
打ち取られてしまう怖さ。
コントロールが荒れていてデッドボールになるかもという怖さ。
その中でも野球選手の打者として生きていて、デッドボールの怖さというのは安易な発想すぎる。
やはり野球選手である以上は、
「打てない怖さ」の方が打者にとっては大きいものであると考えた。
となると、
「打者の近くにボールを投げる行為」
これは怖さには直結しないという事になる。
そして、
人間と人間が対戦する競技において何よりも怖さを感じることは何か。
それは、相手が何を考えているかわからないことである。
投手の意図や意識、怖さを出そうとしている様も、
相手に伝わってしまえば全く怖さにはならない。
これは投手目線でも同じこと。
相手が何をしてくるかわかれば怖いものはない。
打者から見た怖さを考えた時、
ひとつの見解としては、怖さは出そうとしなくても良い。
相手を抑えることだけにフォーカスすることが、
対戦においてはすでに怖さであると言える。
そして、その問いに対してさらに深掘りを続け、
様々な角度から考え続けた結果、
ある一つの答えと出会えることができた。
それは、
「そもそも『怖さ』が自分の武器ではない」ということ。
自身のタイプに「怖さ」という評価があり、
その武器が売りの投手なら、
怖さがないと言われれば、怖さを求めて練習に取り組めばよい。
しかし、
はじめから怖さを売りとしていない投手に怖さがないと言われても、
それはそもそも自分の持っている力、すなわち武器ではないということ。
他人から与えらた武器を使うのではなく、
自身の武器をよく理解し、その武器を磨くこと。
そしてその武器を最大限に利用して戦うこと。
新たに怖さという武器が欲しいと自身で思うのならば話は別ではあるが、
そうでなければ、自身の強みを生かしてもらいたい。
自身がその投手を指導していた時を振り返っても、
「怖さがあっていい投手」と思ったことは一度もなかった。
どちらかといえば精度の高いコントロールと巧みな緩急で相手打者を崩し打ち取るスタイル。
そんな投手に怖さを求めることは、過度な要求に値する。
これは野球の話だけではなく、
一般の社会でも例外ではない。
何をやってもなかなかうまくいかない。
その理由がもし、
他人から言われたアドバイスを鵜呑みにしてしまっていることだと気付いたなら、
まず自分の武器、自分の長所、自分の強みとは何か。
今一度確認することも悩みから抜け出せる一つのきっかけになるかもしれない。
そして、指導をする者、部下がいる者にもこの感覚は持っていてもらいたい。
正しい指導や的確なアドバイスをするためには、
その人間の長所や短所くらいは最低限理解していなくてはならないということ。
無責任な受け売りの言葉は、時に人間を壊すということもある。
相手を理解するまでは助言や口出しをする資格はないということを肝に銘じておかなくてはならない。

